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あそびと学びの境界線

「あそんでないで、ちゃんと勉強しなさい!」

と今日も日本全国津々浦々で飛び交うこの言葉。


大人からすると言いたくないけれど、つい言ってしまう言葉。

子どもからすると言われるとなおさら勉強したくなくなるこの魔法の言葉は、意味の上では間違っていない。


というのも、ここで区別したいのは「勉強」と「学び」についてだ。

まず「勉強」とはその字の通り「勉め強いる」ものだ。

これはつまり外的な要因から、強制力をもって行動を起こさせるものであって、ここでは親が行動を起こしたくない子どもに対して強制して行動させるという意味としてとらえることができる。

だとすれば、「勉強しなさい!」というのは意味としてはあっている。


なんだかこれだけ聞いているとあたかも勉強はただやらされているだけで、悪いものと思われるかもしれない。しかし、一概にそうとも言いきれない。


今の僕を例にあげれば、「狩猟免許をとろう!」とおもって狩猟のテキストを読み込んで勉強することは、試験で合格点を取らなければ法律上動物を捕ることを認められないがために知識や技能の獲得を求められるという「外的要因」によって突き動かされている行動といえる。

「法律なんて知りたくもなんともないけど、知らなきゃだめみたいだから勉強するか。」という調子だ。


これは自分の辿り着きたい目的のための手段の一つとして「勉強」が機能しているのであって、その目的自体が自分自身の意思によって選ばれているのであれば「勉強」は良いものであるし、なくてはならないものだと思う。



一方「学び」はどうだろう。

「学び」は、知ったり技能を身につけたりすることでより高次元の自分に成長することだとすると、「学び」とは「勉強」よりももっと広い概念だ。「学び」の中に「勉強」も含まれている。

「知りたくもなんともなかったけど、無理やりにでも知ったら自分のためになってたぞ!自分は成長したぞ!」という具合。


そして不思議なことにこの「学び」の中には「あそび」も存在している。

「勉強」が先程述べたように「勉め強いられる」ものであるとするならば、「あそび」はこれとは随分と性格が違う。


「あそび」は誰かや何かといった外的要因からは決して起こり得ない。本人の意思によってしか起こり得ない行動だ。

「あー。やだけどあそばなきゃ〜」とは絶対にならない。

そしてその行動要因とはなにかといえば、“楽しい”からだ。


それでは人は何をもって「楽しい」と感じるのだろう。僕は「発見や出来ることが増える喜び」だと思う。


子どもが泥遊びをする。

それは泥に飛び込んだらどんな飛び散り方をするか知りたいから。泥がどんな感触がするか感じて知りたいから。


チャンバラごっこをする。

もっと強くてかっこいい自分になりたいから。なりきることでその技術を身に着けようとしているから。


ゲームをする。

もっと上手に操作できるようになりたいから。次のステージやストーリーがどうなってるか知りたいから。

※ここでは「あそび」の質についてはとりあえずおいておくとする。


全てのあそびは子どもの好奇心から出発している。知らなかったことを知る、出来なかったことができるようになる。そんなこれから出会う、新たな自分に対する好奇心でもある。



そう。「あそび」は学習者主体の「学び」なのだ。



「あそび」と「学び」には境界線などない。ないどころか、「あそび」は「学び」の下位概念だ。


冒頭に出てきた「あそんでないで勉強しなさい!」は言い換えると、「自分のしたい学び方ではなく、まわりがこうしなさいという学び方をしなさい。」という意味に聞こえてくる。(まわりくどいけれども)



このように言われると、それは反発もしたくなるし、余計に勉強したく無くなるのも納得がいく気がしてくる。


「あそび」も「勉強」も「学び」であるに、なぜ勉強だけが優先すべきものとして扱われなければならないのか。


その理由の1つには、先程も述べたが「あそび」が学習者主体の学びであるのに対し、「勉強」が指導者主体の学びであるからだ。



指導者もいろいろだが、例えば学校の教師。もとをたどれば国だ。国がこうした人材を育てていきたいという狙いがあるから「勉強」なのだ。

大人からすれば、それを優先させようとするのは当然のことといえばその通りだ。

また国でなくとも、そこから別に独立して、このように成長してほしいと願う一個人としての大人の思いもあるだろう。


2つ目には「あそびの質」についてだ。

どんなあそびでも学びであるといえるが、そのどれもが子どもの成長段階に適切なあそびであるとは考えない。

特に小さいうちからバーチャルな世界にひたり、身体を使わずに獲得した知識や経験は、生身で経験したものと比べ物にならないほど貧相であるし、的外れであったりする。

大人がこうした質のわるいあそびに対して「あそんでいないで」というのは納得できる。



だとすれば、われわれ大人の意識として「あそんでいないで勉強しなさい」というのと「質のわるいあそびをしないで、質のいいあそびをしなさい」

の二通りがあっていいと思う。


青空ベースで目指しているのは、まさに質のいいあそびから、存分に学ぶ時間をつくり出すことだ。


しかし遊びの性質についても書いたが、あそびは「あそびなさい!」といわれてとる行動ではないというのが難しい点だ。(だから「質のいいあそびをしなさい」とは実際には言えない)

あそびたいと思わせる仕掛けとなる環境をどれだけ準備しておけるか。それが僕たちの仕事なのだ。

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